記事「SBS理論の起源」でご紹介したとおり、SBS理論の起源は1970年に遡ります。その理論のもととなったのが、ガスケルチの1971年の論文であると言われています。
ガスケルチは1915年にイギリスで生まれ、2016年に亡くなった小児神経外科医です。1975年に定年退職したあとはアメリカに移住し、1977年から1984年までピッツバーグ子ども病院に、1982年から1994年まではアリゾナ州ツーソンのUniversity Medical Centerに勤めました。
そして、SBS冤罪を訴えている事件において、弁護側に医学的な知見に基づくアドバイスを行うなどの活動もしていたのです。
2011年にはNPR(全国公共ラジオ)の取材にこたえ、子どもの死亡や傷害について他の原因を排除することなく、揺さぶりによる虐待があったという診断が行われてしまっているのではないかという現状への懸念を明らかにしました。そして、いまや分裂してしまっている学会が一丸となって、この問題について科学的な確信を持っていえることは何なのかを明らかにすべきであるといったのです。
翌2012年に発表されたガスケルチの論文(*下記参照)も、SBSを巡る最近の議論状況について以下のように懸念を表明しています(引用箇所にはページ数を記しました)。
〔1〕 三徴候について
ガスケルチはまず、乳児の網膜や硬膜の出血の所見から、揺さぶりその他の虐待を推認することはできない、と明確にいいます。そして、三徴候があるということだけで、他の原因により死亡や傷害が生じたという可能性を検証することなく、訴追が行われてしまったケースがこれまでにあったという指摘を行っているのです。
「乳児の網膜・硬膜の出血の所見から揺さぶり(やその他の虐待)の存在を推論できるわけではない。……社会の中で最も脆弱な乳児への暴力に対して社会が憤り、報復を求めるのは分かる。しかしながら、伝統的な三徴候(あるいは三徴候の一部)が存在するという証拠しかないときに、暴力行為があったことを医学者や法学者が推論して刑罰を科してしまうという、行き過ぎた事態がこれまであったように思われる。自然原因によって症状が発生したという可能性につき、適切な調査が行われなかったケースもしばしばみられた。加害者とされた者が無実を主張した事件を検証し、私はこれらの事件の多くに既往症や神経系の構造異常や機能異常があったことに驚いた。これらの事件では原因が虐待ではなく、自然性あるいは先天性のものであることが示唆されていたのである。それにもかかわらず、診断書においてはこれらの点について触れられていないことが多かった。」 (pp. 203-204)
〔2〕冤罪の危険性
このような経験から、ガスケルチは医師の診断により冤罪が生まれる危険性を指摘します。そして、特に刑事裁判において、医師の診断が誤ることの重大な帰結を強調するのです。
「診断があやまるとき、医師の助言や治療は最善なものとはいえない。それが有害なものになる場合すらある。乳児の網膜・硬膜の出血のあるケースにおいては、このことは特に当てはまる。なぜならば、誤った診断によって無実の保護者や保育者が刑務所に送られてしまう可能性があるからである。重大な児童虐待事件の有罪率は88%であるとされているから、この懸念は決して小さいものではない。」 (p. 206)
〔3〕SBS・AHTは「仮説」
そして、科学的な議論を行うためには、SBSやAHTの理論が「仮説」であることを踏まえた冷静な議論を行うべきであること、科学的なエビデンスに基づいた知見を作り上げていくことが必要であると指摘するのです。
「「正しい理解」をするためには、仮説と知識とを区別する必要がある。SBSとAHTは、完全な理解をすることができていない知見を説明するために発展した仮説である。このような仮説を発展させること自体には問題はない。そうしなければ、医学も科学も進歩しない。しかし、これらが仮説であって証明された医学的・科学的事実ではないということを、両親や裁判所に対して説明しないことは誤りである。また、仮説の問題点を指摘する論者や別の仮説を提唱する論者を攻撃することも誤りである。「正しい理解」とは「わからない」ことを明確にそしてはっきりと声に出していうことを意味する。」 (p. 207)
〔4〕検証の必要性
最後に、SBS/AHTの科学的なエビデンスがあるのか否かについて、注意深く公正な検証を、論争に関与していない科学者が行わなければならない、といいます。「多数派」がどういっているかが重要なのではないのです。信頼できる科学的エビデンスに基づいて、「何がいえるのか」ということが明らかにされなければならないのです。
「正しい理解」の重要性にかんがみると、SBS/AHTにエビデンスがあるのかについて、この論争に関与していない科学者による、注意深く公正な検証が行われるべきである。問題は、多数派の医師(あるいは法律家)がどのように考えるかではなく、信頼できる科学的エビデンスによって何をいえるかである。この問題に個人的な利害関係がなく、仮説とエビデンスの違いについての理解などの基本的な科学原理に造詣の深い者によってエビデンスが検証される必要がある。そのような人々を選ぶのは簡単なことではないだろう。しかし、正義と幸福を実現するためには、そのような努力をする必要がある」 (pp. 206-207)
SBS理論をリードしてきた著名な小児虐待医のキャロル・ジェニーは、2008年に全米SBSセンターで開催されたシンポジウムで「SBSの発見者は誰だと思いますか?私は、ノーマン・ガスケルチだと思います」とガスケルチを紹介し、観客はスタンディング・オベーションでガスケルチを迎えたとされています(上記・NPR記事参照)。
このように、SBS理論の提唱者と称されるガスケルチの上述のような懸念があるのであれば、その指摘を踏まえてSBS/ AHT理論の十分な検証が行われるべきではないでしょうか。
そして、ガスケルチが提案した「第三者による正しい理解のための検証」の試みのひとつが、スウェーデンの2016年SBU調査報告書であるといえるのではないでしょうか。
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