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速報:東京高裁SBS無罪判決を維持

 2021年5月28日、東京高裁第5刑事部(裁判長藤井敏明裁判官、吉井隆平裁判官、新宅孝昭裁判官)は、SBSを疑われた事案について、東京地裁立川支部が2020年2月7日に言い渡した無罪判決を支持し、検察官の控訴を棄却しました。高裁判決では、SBS/AHTについて重要な判断が示されていますので、そのいくつかについてご紹介しましょう。

1 医学的な所見にのみ基づく「揺さぶり」の認定の危険性

 まず、高裁判決は、次のように述べて、医学的な所見のみから、その原因を「揺さぶり」と判断することの問題点を指摘します。「各医師の証言や見解によれば,本件各傷害の発生時期やその原因は医学的に確定することができないのであるから,本件各傷害が被告人の揺さぶる暴行という一元的な原因で生じたと断じることには無理がある。本件のように,犯罪を証明するための直接的な証拠がなく,高度に専門的な立証を求められる傷害致死事件においては,生じた傷害結果について医学的な説明が可能かということだけではなく,本件に即していえば,被害者の年齢,事件前の被告人の暴行の有無やその態様,事件に至る事実経過,動機の有無やその合理性,事件後の被告人の言動などの諸事情を総合的に検討し,常識に照らして,被告人が犯行に及んだことが間違いないと認められるかを判断する必要がある。」この判断は、「SBSの診断には、①硬膜下血腫またはくも膜下出血 ②眼底出血 ③脳浮腫などの脳実質損傷の3主徴が上げられ〔る〕。……出血傾向のある疾患や一部の代謝性疾患や明らかな交通事故を除き、90cm以下からの転落や転倒で硬膜下血腫が起きることは殆どないと言われている。したがって、家庭内の転倒・転落を主訴にしたり、受傷起点不明で硬膜下血腫を負った乳幼児が受診した場合は、必ずSBSを第一に考えなければならない」(厚労省の平成25年版『子どもの虐待対応の手引き』。いわゆる三徴候論)などとしてきたSBS論の問題性を端的に示すものと言えます。

2 小児科における一元的診断手法?

 SBSに関する医学的診断について、検察官は控訴審において「小児医療においては,乳幼児に複数の傷害結果が生じた場合には,大人に対する場合と異なり,最初に原因が一つである可能性を前提にして総合診断を行うことが共通の理解とされており,本件各傷害の原因を検討するに当たっても,このような乳幼児に対する基本的な診断手法に則って,総合的に評価・検討することが必要である」と主張していたようです。このブログで何回か言及した溝口史剛医師は、別の裁判の法廷で何度か「原因はできるだけ一元的に考えるべきだ」と証言していました。本件の原審でも溝口医師は検察側証人として証言していたようですから、おそらく溝口医師の原審証言に基づき、検察官はそのような主張をしたのでしょう。これに対し、高裁判決は、「しかし,所論(引用註:検察官の主張を指します)のような共通理解が小児医療の分野にあるとしても,それは小児医療における診断の指針ということに過ぎず,裁判所が事実認定を行う上で準拠すべき科学法則のようなものではない。しかも,所論のいう共通理解の内容は,要するに,小児医療において,原因が一つである可能性を最初に考えて診断を行うというものであって,診断を行う際の端緒のようなものに過ぎず,そのように考える理由も,所論によれば,高齢者の場合には様々な原因が積み重なって複数の疾患を生じている可能性があるのに対し,乳幼児の場合には,特段の先天性疾患や感染症のない限りは,基本的には健康体と考えるというものに過ぎない。したがって,その内容自体に照らしても,刑事裁判において,乳幼児に存在する複数の疾患ないし傷害について,複数の原因が,競合的に,あるいは連鎖的に働いた結果である可能性を排除することのできるような,何らかの確立された科学的な原理を示すものではない。」として排斥しました。高裁判決が述べるとおり、急変した乳幼児が時として重症化し、頭蓋内に急性硬膜下血腫、眼底出血、脳浮腫などの三徴候が見られことがあるのは、複数の原因が競合したり、連鎖したりした結果と考えられることは繰り返し指摘されてきました。にもかかわらず、一元的な考え方から「揺さぶりを第一に考えるべきだ」などとするのは、予断を奨励するようなもので非常に危険です。その意味でも高裁判決の指摘は重要です。

3 三徴候論をめぐる検察官主張の混乱と循環論法

 上記の三徴候論について、高裁判決は、以下のような興味深い判示をしています(引用は固有名詞部分を一部修正しています)。「(検察官は、被害児に見られたという)①多発性硬膜下血腫,②脳浮腫,③眼底出血という三つの徴候について,たまたま別の原因が複数回折り重なって起きたとするのは医学的に非常に不合理であり,これらの症状が一元的に生じ得ることを唯一合理的に説明し得るのは,医学的には,揺さぶりを主体とした虐待による頭部外傷以外には説明できないと判断するのであり,これは,医学論文その他の文献上の根拠によって裏付けられた国際的な医学界の共同合意であり,乳幼児の受傷原因を判断するに当たっては,具体的傷害という複数の間接事実が同一機会に重畳的に発症したことを前提に,揺さぶりが原因でないとしたならば,それらを全て整合的・合理的に説明できるか否かの観点から検討を加えることが不可欠なのであり,このような乳幼児に対する基本的な診断手法に則っても,本件では,被害児に生じていた複数の傷害結果について,分断して個別に評価するのではなく,これら全てを総合考慮した上で,その原因が一つではないかとの可能性についてまずもって判断を下す必要があった,という。」「ところが,…(同時に検察官は),前記三つの徴候が認められている場合に揺さぶる暴行があったと推定する,いわゆる三徴候理論は,虐待の可能性がある事案を見つけ出すための手法がそのように呼称されたものに過ぎず,三徴候があれば直ちに揺さぶる暴行があったと推定する考えに基づくものではないという。それにもかかわらず,検察官は,前記のように,被害児に認められた多発性硬膜下血腫,脳浮腫,眼底出血の三つの症状について,たまたま別の原因が複数回折り重なって起きたとするのは非常に不合理であり,これらの症状が一元的に生じ得ることを唯一合理的に説明し得るのは,揺さぶりを主体とした虐待による頭部外傷以外にはないと判断すべきであるといい,結局,三徴候から揺さぶる暴行があったことが推認できると主張する。以上の主張を整合的に理解することは容易ではないが,要するに,所論は,『乳幼児の受傷原因を判断するに当たっては,具体的傷害という複数の間接事実が同一機会に重畳的に発症したことを前提に,揺さぶりが原因でないとしたならば,それらを全て整合的・合理的に説明できるか否かの観点から検討を加えるべきである』ということに帰着するものかと思われる。しかし,乳幼児に対する虐待を専門的に扱う医学者の間において,上記のような判断方法が採られているとしても,本件では,本件各傷害が公訴事実に記載された時間帯に生じたことや,本件各傷害を一元的に合理的に説明し得るのは揺さぶりを主体とした頭部外傷のみである,とする原審検察官の主張が争われているのであるから,本件の争点を判断する際に,原判決が,本件各傷害が同一機会に重畳的に発症したこと,換言すれば一個の原因に基づくものであることを前提としなかったのは,正当な判断方法である。」ここで、高裁判決が指摘するとおり、検察官は三徴候論によって揺さぶりを断定する必要性を強調する一方で、三徴候論は揺さぶりを推定する考えではない、というのですから、支離滅裂と言うほかありません。また、高裁判決が、「本件では,本件各傷害が公訴事実に記載された時間帯に生じたことや,本件各傷害を一元的に合理的に説明し得るのは揺さぶりを主体とした頭部外傷のみである,とする原審検察官の主張が争われているのであるから,本件の争点を判断する際に,原判決が,本件各傷害が同一機会に重畳的に発症したこと,換言すれば一個の原因に基づくものであることを前提としなかったのは,正当な判断方法である」との部分は、検察官の主張が循環論法に陥っていることを指摘したものです。検察官は、検証の対象となっている自分たちの主張が正しいことを前提に、「自分たちは正しい」と言い張っているにすぎないのです。ちなみに、検察官が主張する「国際的な医学界の共同合意」なるものは、これもこのブログで何回も触れてきた「AHT共同声明」と思われますが、一部の医師らによる政治的な意見表明にすぎません。高裁判決が、これに依拠しなかったのはきわめて合理的な判断です。

4 検察官主張の論理破綻

 検察官の主張には、上記3で引用した三徴候論をめぐる議論の混乱や循環論法以外にも、重要な問題点が含まれています。SBS理論に内包される論理破綻ともいえます。上記引用に引き続いて、高裁判決は次のとおり述べます。「そもそも,一定の原因があれば,ある結果が生じるとしても,他の原因で同じ結果が生じる可能性がある限り,原因と結果を逆転させて,その結果があれば当該原因があったと当然に推認できるわけではない。この構造は,一個の原因から三つの結果が生じる場合でも基本的には変わらないのであって,揺さぶる暴行により前記三つの症状が生ずる機序を合理的に説明することが可能であるとしても,それらの症状が他の原因によって生じ得る合理的な可能性が排除できない限り,前記三つの症状が存在すれば,それらの症状から遡って,一個の原因としての揺さぶる暴行があったものと直ちに推認できるわけではない。前記三つの症状がたまたま並存したとするのは『医学的に』不合理であるとして一個の原因によることを前提とする所論は,前記のような論理的な構造をあいまいにし,他にそれらの症状が生じた原因が合理的に考えられないことに関する検察官の立証責任を看過するものである。しかも,所論の説明する機序においても,前記三つの症状が全て揺さぶる暴行によって直接的にもたらされるというわけではなく,揺さぶる暴行と多発性硬膜下血腫との間には架橋静脈の破断が介在し,揺さぶる暴行と脳浮腫との間にはびまん性軸索損傷や脳幹部の神経の損傷が介在するというのであるが,本件では,被害児にこれらの中間的な損傷が存在したことは証明されていない。したがって,前記三つの症状がたまたま並存したとするのは『医学的に』不合理であるとして,前記三つの症状が揺さぶる暴行によるものとする所論は,結果から原因を遡って推認する過程において,立証されていない損傷の存在を前提とするという飛躍があるものであり,この意味でも,本件において採用することのできない見解といわなければならない。」ここで高裁判決は、「逆は必ずしも真ならず」という論理学の基礎から、検察官主張の論理的な誤りを明確に指摘しています。そして、検察官の理屈が検察官の立証責任を無視したものであることを批判した上で、立証されていない自らの結論を前提にするといった循環論法や論理の飛躍も重ねて指摘したのです。明快であり、きわめて合理的な判断です。検察官の論理は完全に粉砕されたと言っても過言ではないでしょう。

 検察官には、自らの無謬性に固執するのではなく、高裁判決の指摘を真摯に受け止めて、これまでの訴追に同じ誤りがなかったかを検証してもらいたいものです。