SBS/AHT理論は、昆虫の飛行と同じ?-SBS/AHTをめぐる不可思議な議論

溝口解説にも出てきますが、SBS/AHT仮説への批判に対する再反論として、「昆虫の飛行」が持ち出されることがよくあります。アメリカの虐待関連の出版でも何度かこの喩えを見たことがありますので(例えば溝口医師も監訳者の1人であるキャロル・ジェニー編「子どもの虐待とネグレクト」金剛出版587頁)、アメリカでの議論の受け売りなのでしょう。しかし、その出典がアメリカにせよ、日本にせよ、SBSの議論として、およそ適切な喩えとは言えません。むしろ、議論をミスリードする誤った喩えと言うべきです。どういうことか、まず溝口解説をもとに、「昆虫の飛行」論を見てみましょう。

溝口解説では、以下のように説明されます。

「自然科学の基盤というのは『観察』にある。前提が誤っている研究を基軸に、観察される事象を否定するのは本末転倒なのである。例えば、昆虫の飛行はニュートンの法則に則っておらず、なぜ昆虫が飛行することができるのかを、科学者たちは1990年代になるまで完全には解明できなかった…その証明がなされるまでの間、『研究で証明されないから、昆虫が飛ぶわけがない!』と主張する研究者はもちろんいなかった。しかし残念ながらAHTに関しては、『昆虫が飛ぶわけがない』という類いの主張が法廷で飛び交っている状況にある。」(溝口解説343頁)

極めて不可解な説明です。昆虫が飛ぶことの観察と、SBS/AHTの観察がなぜ同列に論じられるのか、全く理解できないからです。特にSBSの場合で言えば、揺さぶりによって、三徴候が生じる状況を「観察」した人はこの世に誰もいません。確かに、赤ちゃんに三徴候が生じた中には、養育者が「揺さぶり」を自白した例もあるでしょう。しかし、そのときでも観察されているのは、三徴候という結果と、揺さぶりの自白だけです。揺さぶりから架橋静脈が破綻する場面や眼底出血が生じる場面を、直接「観察」した訳ではないのです。直接観察できる昆虫の飛行とは明らかに違います。

仮にSBSに喩えるのであれば、どちらかと言えば「太陽が動いている」との「観察」に近いでしょう。確かに地上からも太陽の動きは観察できます。その観察から、昔の人は地球の周りを太陽が回っていると信じたのです。しかし、これはあくまで、地上という限られた場面からの「観察」であったことによって生じた誤謬です。SBS仮説についても同じことが言えます。観察できるのは「事後的に生じた」徴候と養育者の供述だけです。その徴候が生じた時点での赤ちゃんの頭の中は見えていないのです。その限られた観察からでは、誤った推論をしてしまうことも十分にあり得るのです。

海外の権威ある人の議論だからといって、単に受け売りするのではなく、冷静にその内容の正しさを見極めたいものです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です