柳原三佳著「わたしは虐待していない」が訴える事実の重み

(ケース1)「Hくんにはどう説明するんや、もしくは、説明しーひんのか。臭いものには蓋か!」…「警察はみんな調べてる。ハッタリや思うたら大間違いや!この9か月、あんたは自分の保身ばかり考えてたんやろけど、こちらも9か月、同じ月日が流れていて捜査してるんや」

(ケース2)「Tの頭はスカスカ。一生障害児」…「Tが障害児になったのはお前のせい。お前が蹴飛ばしたんやろ、投げ飛ばしたんやろ!」

どちらも、柳原三佳さんが出された「わたしは虐待していない-検証 揺さぶられっ子症候群」(講談社)からの引用です。これらはSBS/AHT仮説に基づいて虐待を疑われた二人の母親が、柳原さんの取材に対し、警察から受けた取調べの状況を語ったものです。時代遅れの取調べのようにも思えますが、決して古い取調べではありません。ケース1は、2015年9月、ケース2は、2018年9月の取り調べの状況です。SBS仮説による医師の鑑定を信じ込んだ警察官が、自白を強要している姿が生々しく浮かび上がってきます。このような取調べの実態が明らかになるのも、柳原さんが、丁寧に当事者の声を取材し続けたからにほかなりません。生の声が持つ重みを改めて考えさせられます。そして、えん罪被害の不条理さを私たちに教えてくれます。是非、多くの人にお読みいただきたい一冊です。

ところで、この本にも何度も言及がありますが、SBS仮説に基づいて鑑定意見を述べる医師の方々にも、考え直していただきたいことがあります。

そのような医師の多くが、鑑定にあたり、当事者たちの生の姿を知ろうとしません。家庭の状況も見ません。そして、CT画像や網膜出血などの所見を確認しただけで、当事者の声には耳を傾けず、「虐待が強く疑われる」といった意見を述べているのです(その背景には、「三主徴(硬膜下血腫・網膜出血・脳浮腫)が揃っていて、3m 以上の高位落下事故や交通事故の証拠がなければ、自白がなくて(も)、SBS/AHT である可能性が極めて高い」(BEAMSの“SBS/AHT の医学的診断アルゴリズム”)といった虐待をデフォルト(標準)とする考え方があると考えられます)。

確かに、事実の認定は容易ではありません。当事者の声を聞けば、直ちに事実が明らかになるというものではないことも事実です。しかし、当事者の立場に耳を傾けることなく、虐待をデフォルトとすることには、強い違和感を覚えざるを得ません。「虐待」との予断を持たずに、まず謙虚に耳を傾ける、そのようなプラクティス(実践)こそをデフォルトにはできないものでしょうか。

One reply

  1. どんな事件も、耳を疑うような捜査があることに、悲しい限りです。真実が1番ではあるけれで、様々な言葉に耳を傾けることが必要ではないかと。何故なら、そこにこそ真実が隠れているからだと思う私です。どんな小さなことにも、触れて、耳を傾けて。そうじゃない。じゃなく、そうかも知れない。そんな操作を望んでいます。

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