柳原三佳さんの「私は虐待していない-検証 揺さぶられっ子症候群」をご紹介しましたが、ほぼ時を同じくして、もう一つSBSに関する一般向けの出版がなされました。溝口史剛医師訳の「SBS:乳幼児揺さぶられ症候群-法廷と医療現場で今何が起こっているのか?」(金剛出版)です。これは、アメリカのSBS理論を主導してこられたロバート・リース医師が書かれた”To Tell The Truth”という法廷小説を、溝口史剛医師が日本を舞台に置き換えた翻訳をされた上、SBSの議論状況について、溝口医師の立場からの詳細な解説を加えたものです。溝口医師による解説部分は、「訳者まえがき」が3頁、「訳者あとがき」が、「訳者による解説」「追記」「さらに追記」という文章及び参考文献も含めて全文80頁に及んでいます(以下、「溝口解説」とします)。そして、溝口解説は、その紙幅の多くが、SBS検証プロジェクトの活動、特にホームページやこのブログに対する批判で埋め尽くされていると言っても過言ではありません。非常に丁寧にホームページやブログを確認して下さっていることが、よく判ります。通説化してしまっていたSBS仮説について、議論を巻き起こしたいと考えていた当プロジェクトとしても、多くの批判もいただきながら、議論が活性化し、建設的な話し合いができることは、まさに望むところです。
しかし、溝口解説は残念ながら、私たちの期待したような冷静で建設的な議論からはほど遠いものと言わざるを得ませんでした。
例えば、溝口解説は、SBS仮説によるえん罪や誤った親子分離のリスクを訴える私たちの主張や活動を「法廷闘争」「なりふり構わない刑事弁護」などとラベリングしています。その表現ぶりからは、私たちの主張や活動(但し、溝口解説は、私たちの主張・活動を正確に捉えていません)を感情的に敵対視しようとする姿勢が明らかです。何より残念なのは、当方の主張を徹底的にやり込めようとするあまりか、正確に引用せず、歪曲した上で論じておられる部分が多々見られることです。1つ例を挙げましょう。「SBS検証プロジェクト…HPでは、『日本でSBSの診断を積極的に行っている医師は、海外の知見を鵜呑みにし、最新の知見を一切学んでいない』と虐待医学の専門家をあたかも無責任で不勉強で偏った医師と誤認させようとしている」という文章がでてきます(322頁)。そしてこれを受ける形で「海外の知見はこれまで一切紹介されてこなかったか?」という見出しの章が設けられたり(331頁)、議論の対比表の中で「Myth」(=「神話」の意味。私たちの議論を「神話にすぎない」とラベリングする意図と思われます)として「これまでSBSの懐疑論は、一切紹介されてこなかった」(376頁)と説明されたりしているのです。これらの文章を読んだだけであれば、SBS検証プロジェクトは、非常に偏狭な批判をしてきたグループだという印象を持たれるのではないでしょうか。しかし、実際には、そのような文章はSBS検証プロジェクトのホームページには出てきません。そもそも私たちは、これまで「海外の議論が一切紹介されてこなかった」という認識を持ち合わせていません。このように相手方の議論を変えた上で批判し、論破したように見せかけるのは、詭弁術において「Straw Man(藁人形)」と呼ばれる手法です(SBSをめぐる論争のなかでも、実はこの「Straw Man」という言葉が飛び交っています)。せめて引用は正確にした上で、批判をいただきたいところです。
その他にも、溝口解説には、前提の誤りや、根拠に乏しい決めつけ、論理の飛躍などが多数含まれていると言わざるを得ません。実は、溝口解説は、これまでこのブログで触れてきた「AHT共同声明」と軌を一にするものです。そして、ブログで指摘してきた循環論法、確率の誤謬、自白依存、基準の不存在などの問題点は、そのまま溝口解説にも当てはまるのです。確かに溝口解説でも、いくつか言及はあるのですが、根本的な問題点が、議論の前提や論者に対する個人攻撃的な非難に隠されてしまって、直ちに読み取ることが難しくなってしまっているのです。
これら、溝口解説の問題点は多岐にわたりますので、順次指摘していくことにしましょう。ただ、このブログの根本的な主張とまさに相いれない文章が出てきますので、そのことだけは触れておきましょう。
それは、「『現状の医学は、分からないことだらけであり、誠実に分からないことを認めなくてはならない』という意見は一見誠実なように見えるが、医学とは全く相いれない『デメリットばかりでメリットなど何もない”法廷に立つ”という責任』を、職業的倫理観から果たそうとしている訳者の立場からは、専門的医療者の行うべき職責を放棄しているともとれる発言であると言わざるを得ない」(387頁)という文章です。
ここでも『』の部分は、引用に読めますから、引用元を明示すべきと思われます。あるいは、このブログの「なぜ議論がすれ違う?-”わからない”ことはわからない」の投稿を意識していただいたのかもしれません。そうだとすれば、やはり正確に引用していただきたいものです。しかし、ここではそのことは措きましょう。このブログで繰り返し述べてきたとおり、最大の問題は「SBS/AHTが存在する」か否かではありません。医学的所見からその原因行為が「揺さぶり・虐待」か、事故、あるいは他の内因性のものかが鑑別できるかです。実際には「揺さぶり・AHTに特有の所見」などありません。基準らしきものが述べられることはありますが、その多くは循環論法に陥っています。鑑別などできないのです。特に、これまで診断基準とされてきた三徴候では、その鑑別はできないというのが私たちの主張です(なお、溝口解説ではあたかも三徴候だけでは鑑別してこなかったかのように強調していますが、従前の実務状況を無視しているとしか言いようがありません)。当然「わからない」部分は残ります。そのことは溝口医師も認めておられるはずです。にもかかわらず、「わからない」ことを「わからない」と述べることが、なぜ専門的医療者の「職責を放棄」したことになるのか、全く理解できません。「メリット・デメリット」の問題でも、「職業的倫理観」の問題でもありません。「わからない」ことを正しく「わからない」と述べることこそが、医療従事者の「職業的倫理」であり、職責です。逆に、「わからない」ことを「わかった」かのように述べることは、医師としての職業倫理に反し、その正しい職責を放棄する行為だと言わざるを得ません。
虐待は許されません。誤った処罰や親子分離も絶対に許されません。その当たり前のことを前提に、冷静に、かつ建設的に議論を進めたいものです。
[…] 溝口解説にも出てきますが、SBS/AHT仮説への批判に対する再反論として、「昆虫の飛行」が持ち出されることがよくあります。アメリカの虐待関連の出版でも何度かこの喩えを見たことがありますので(例えば溝口医師も監訳者の1人であるキャロル・ジェニー編「子どもの虐待とネグレクト」金剛出版587頁)、アメリカでの議論の受け売りなのでしょう。しかし、その出典がアメリカにせよ、日本にせよ、SBSの議論として、およそ適切な喩えとは言えません。むしろ、議論をミスリードする誤った喩えと言うべきです。どういうことか、まず溝口解説をもとに、「昆虫の飛行」論を見てみましょう。 […]