2022年の新年早々、アメリカから重大なニュースが飛び込んできました。ニュージャージー州の上級裁判所(Superior Court=日本の地方裁判所に当たります)におけるフライ審理※において、2022年1月7日、SBS/AHT仮説に基づく小児科医の証言について、「AHTに関する証言は、信頼できる証拠ではなく、証明的価値よりも偏見的価値の方がはるかに高いため、本件では許容されない」とされ、検察側証人が、AHTについて証言することを禁止する決定が出されたのです(SUPERIOR COURT OF NEW JERSEY No. 17-06-00785 State of New Jersey vs. Darryl Nieves ORDER OF THE COURT January 7, 2022。以下「NJ決定」といいます)。SBS/AHT仮説発祥の地というべきアメリカにおいて、このような判断がなされたことはきわめて重要です。アメリカのSBS/AHT仮説を輸入する形で有罪判決を重ねてきた日本の裁判実務にも、大きな影響を与えるべきものです。最近、日本では元裁判官がSBS/AHT仮説に関連して、「否定的見解はあるものの、三徴候がAHTを疑う契機とする見解が小児科だけでなく小児眼科や小児神経科・放射線科等の専門医にも広く承認されており、その機序に関する専門医の説明内容も、合理的なものと考えられる」「激しい揺さぶりなどで3徴候が生じ得るという受傷機序自体は、裁判所でも法則性のある『経験則』として認められている」などと論じています(中谷雄二郎「虐待による乳幼児頭部外傷(AHT)をめぐる裁判例の分析」刑事法ジャーナル70号(2021年)33頁。以下、「中谷論文」といいます)。中谷論文の趣旨には不明確なところもありますが、そのSBS/AHT擁護論は、NJ決定によって真っ向から否定されたというべきでしょう。
※Frye Hearing=アメリカで、陪審裁判に先立ち、当事者から証拠請求された科学的証拠の許容性を審査する審理。日本にはこのような審理手続はありませんが、アメリカでは陪審に科学的に不確かな証拠で誤った予断を与えないために行われます。
以下、NJ決定の概要を見てみましょう。
事件は、2017年2月、生後11か月の男児のおしめを、父親のダリル・ニーブスさんが換えている途中、突然男児がぐったりし、反応しなくなったことに端を発します。驚いたダリルさんは、男児の母親ルーシーさんに男児の症状を見せ、救急車を呼びました。搬送先の病院で、男児に新旧の硬膜下血腫や広範な多層性の眼底出血が確認されました。他方、男児の頭部などの外表には、何ら異常所見は認められませんでした。その検査結果から、AHTの疑いがあるとされました。ダリルさんも、ルーシーさんも、虐待はもちろん、男児が傷害を負うような事故などなかったと明確に否定しました。その代わり、二人は、男児は妊娠25週で産まれた早産児で、出生以来、多くの健康上の問題を抱えていたことを訴えました。実際、男児は生後4か月の間に、2度も心臓手術を受けていたのです。また、発症の数日前から、突然ぐったりするといった症状を繰り返していました。これらの事情から、男児に見られた急性硬膜下血腫、眼底出血が、暴行など外力によるものなのか、早産や先天性の疾患に関連した内因性のものなのかが問題となりました。鑑定を求められた児童保護センターの小児科医グラディベル・メディナ医師は、約2ヶ月後「児童虐待である…インパクトを伴う、もしくは伴わない揺さぶりによって生じる特異的な虐待性頭部外傷(AHT)であることが、医学的に合理的な確からしさをもって言える」などとしたのです。この鑑定を受けて、警察がダリルさん、ルーシーさんを取り調べました。ダリルさんは揺さぶりを否認し、ルーシーさんも、ダリルさんが男児を乱暴に扱ったことなど見たことはないと説明しました。しかし、ダリルさん、ルーシーさんの説明は聞き入れられることはなく、ダリルさんは、約1年後の2017年に起訴されてしまいます。こうしてみると、アメリカも日本も、捜査機関のSBS/AHTをめぐる姿勢は非常に似ていることが判ります。虐待を主張する医師の意見を鵜呑みにし、被疑者の言い分に耳を貸さない、ここに本質的な問題点があると言えるでしょう。
検察官が訴追の拠り所としたのは、前述のメディナ医師の供述です。メディナ医師は、虐待小児科医として、25年以上の経験があり、ニュージャージー州の医学界では、虐待問題についての第一人者として指導的立場にある人物でした。
これに対し、弁護側は、メディナ医師の供述は科学的根拠に欠けるSBS/AHT仮説に依拠するもので、科学的証拠としての許容性がないとして、その排除を求めるフライ審理を申し立てたのです。そして、弁護側専門家証人として、眼科医のジョセフ・シェラー医師、放射線科医のジュリー・マック医師、生体工学の専門家であるクリス・バン・イー氏が証言しました。
これに対し、ニュージャージー州上級裁判所は、フライ審理におけるメディナ医師、シェラー医師、マック医師、イー氏の各証言を詳細に検討しました。その結果として出されたNJ決定は、全文77ページにわたる詳細なものです。そして、結論として、SBS/AHT仮説の科学性を否定したのです。その主要な部分は、以下のようなものです。
「文献や証言から明らかなのは、AHTは、科学的・医学的に信頼できる診断となりうる科学的・医学的な技術や手順によって発展したものではなく、診断として医学的・科学的に検証されたことがないことである。特にメディナ医師の証言を通じて明らかになったのは、AHTは、診断医が他の診断の選択肢がなくなったことにより示される一つの選択であって、診断というよりも推測であるということである。メディナ医師は、AHTに関連する乳幼児の症状を引き起こすのに必要な物理的な力を人間が作り出すことができるということを証明できるテストを挙げることができず、また文献の中でも言及することができなかった。被告人がこの事件の被害者に外傷を与えたという証拠はなく、AHTは、信頼できるテストによって開発された事実に基づくのではなく、憶測と外挿(※引用者註:「外挿」とは既知のデータから未知の事象を予測することです。比較対象として適切でないデータを用いれば、予測も誤ってしまいます)に基づく理論に由来する、欠陥のある診断法である。」
「AHTが、実際に、病態を引き起こす外傷を説明する有効な診断であることを示す証拠は何もない。その代わり、文献や証言が明らかに示しているのは、AHTは、いかなる医学的・科学的試験にも裏付けられておらず、サルや木製の人形、その他の擬人化されたダミー人形で行われたテスト結果をスケール・ダウンさせることに基づく医学的診断としてパッケージされた一つの仮定であり、本件のような乳幼児の傷害の原因についての合理的疑いを超える証拠として提示されるということである。繰り返しになるが、小児を揺さぶることでAHTに関連する三徴候が引き起こされるという仮説を検証した研究はなく、これを認める根拠はないのである。特に、一人の人間が、AHTとして定義される三徴候を引き起こす乳児の揺さぶりができるかどうかのテストがなされたこともない以上、AHTは、科学的・医学的テストとほとんど関係がないにもかかわらず、科学的または医学的証拠として不正確かつ誤解を招くように提示されうる「ジャンク・サイエンス」に類似しており、刑事裁判での因果関係の証明のために使用するには、強く予断を与える一方、きわめて低い証明力しか与えないこととなりうる。人間の乳児は、力や衝撃の影響に関して参照され検討された研究で利用されたサル、木製の人形、その他の擬人化されたダミー人形とは全く異なる。その結果、州検察官の証人としてメディナ医師が証言したように、硬膜下血腫やAHTを構成する他の三徴候を引き起こすのに必要な最小限の力がどの程度であるかは、AHTを信頼できる診断として確認する科学的技術や手続がなく不明であり、今後も明らかになることはないと思われる。その技術や手続は、『除外(診断)から作られたもの』であり、……フライ基準の下で専門家証言や医学的証言が信頼できる証言として許容されるためには、「十分に確立された」とみなされなければならないことからすれば、必要とすら言えない。」
NJ決定は、生体工学的に、そもそも人間の手による揺さぶりによって三徴候が生じうるという証明自体がなされていないことを正面から指摘し、科学的・医学的証拠として十分ではないとしたのです。この指摘は、当ブログで繰り返し述べて来た「SBS/AHT仮説を0(ゼロ)ベースで見直すべき」との主張と軌を一にするものです。また、同時に、SBS/AHTの診断で頻繁に用いられる「消去法的」手法(他の原因が分からなければ「揺さぶり」と認定する手法)の誤り・危険性を指摘するものと言えます。
前述の中谷論文は、SBS/AHT仮説について「合理的なものと考えられる」としたり、「激しい揺さぶりなどで3徴候が生じ得るという受傷機序自体は、裁判所でも法則性のある『経験則』として認められている」などとする点で、NJ決定と全く相容れないものです。中谷氏は、日本の裁判例を数多く調べておられますが、残念ながらSBS/AHT仮説の科学的・医学的な問題点を、その根本にまで遡って研究し、理解してはおられないのでしょう。また、アメリカと違って、日本の裁判では、SBS/AHTをめぐる議論の是非そのものが直接争点とされる訳ではない、という実情も無視しているといわざるを得ません。にもかかわらず、裁判で正面から否定されていないからと言って、SBS/AHT仮説を「経験則」であるかのように論ずるのは誤りです。むしろ、近時相次ぐ無罪判決からは、直接ではないにせよSBS/AHT仮説の問題点を鋭く指摘し、浮かび上がらせていることこそを読み解くべきです。これらの中谷論文の問題点は、別の機会に改めて述べることにしたいと思います。
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[…] なお、「まず外力ありきのバイアス」は誤りだという論理は、以前のブログで触れた中谷雄二郎「虐待による乳幼児頭部外傷(AHT)をめぐる裁判例の分析」(刑事法ジャーナル70号(2021年)33頁)の「否定的見解はあるものの、三徴候がAHTを疑う契機とする見解が小児科だけでなく小児眼科や小児神経科・放射線科等の専門医にも広く承認されており、その機序に関する専門医の説明内容も、合理的なものと考えられる」「激しい揺さぶりなどで三徴候が生じ得るという受傷機序自体は、裁判所でも法則性のある『経験則』として認められている」という議論の誤りにもつながります。三徴候を裁判上の「経験則」とすること自体が、誤ったバイアスを固定化することになりかねないのです。中谷論文の問題点については、川﨑英明関西学院大学名誉教授(刑事訴訟法)が「SBS仮説は経験則か?」というテーマで述べていますので、是非ご参照ください。 […]
[…] その医師が前提にしたと考えられるのが、SBS仮説に対する誤解です。SBS仮説は、揺さぶりによって、頭部の表面には目立った痕跡がなくても、脳の深部に強い外力を及ぼすことが可能だと考えてきました。これまでもこのブログで説明してきたとおり、SBS仮説は、「急性硬膜下血腫、網膜出血、脳浮腫の三徴候が認められれば、強い揺さぶりがあったと推定できる」ことを前提にしています。そのうち「脳浮腫」とは、揺さぶりによって、脳神経が広範囲に切れてしまう「びまん性軸索損傷」だと考えてきました。そして、検察側医師は、「CT画像からはA子ちゃんにはびまん性軸索損傷が生じていると考えられる」、「揺さぶりによって、びまん性軸索損傷が生じ、脳幹の上部(中脳)に損傷が生じることはサルの実験によって確かめられている」と証言したのです。医師の述べる「サルの実験」とは、ジェナレリという脳神経外科医が1982年に発表したものです(Thomas A. Gennarelli etal “Diffuse Axonal Injury and Traumatic Coma in the Primate” Annals of Neurology Vol.12,Issue 6 December 1982 Pages 564-574)。実は検察側医師は、このジェナレリの実験を誤解していました。ジェナレリの実験をサルの頭部を「11秒から22秒激しく振り回した」ものだと思っていたのです。そして、11秒から12秒激しく揺さぶれば、「びまん性軸索損傷を生じ、脳幹上部にも損傷を生じる」ことを示していると思い込んだのです。ジェナレリの実験は全く違います。「機械によって、サルの頭部を11ミリ秒~22ミリ秒=1000分の11秒~22秒という目にもとまらない速さで動かし、かつ停止させることによって、高位落下や高速交通事故において脳が受ける衝撃を再現したもの」だったのです。検察側医師は、「ミリ秒」が1000分の1秒であることを知らない上、11~22秒の揺さぶり実験だと誤読していたのです。ジェナレリの実験のように高速度交通事故に匹敵する衝撃が加えられれば、びまん性軸索損傷や脳幹上部に損傷を生じても何ら不思議ではありません。もちろん、ジェナレリの実験は、人間の手の揺さぶりによって、交通事故並みの外力が生じることの論証にはなりません。それどころか、全く逆の結論が、多くの工学的な実験で確かめられてるのです。成人男子が激しい揺さぶりをしても、びまん性軸索損傷などの頭蓋内に大きな損傷を与えるほどの外力を生じさせないことが明らかにされてきたのです(Ann-Chritine Duhaime,M.D.etal,“The shaken baby syndrome A clinical, pathological, and biomechanical study” 66 J Neurosurg 409-415(1987), John Lloyd et al., “Biomechanical Evaluation of Head Kinematics During Infant Shaking versus Pediatric Activities of Daily Living” 2 Journal of Forensic Biomechanics 9 (2011)。ニュージャージ上級裁判所決定も参照)。そして、SBSとされてきたほとんどの事例で、びまん性軸索損傷が生じていなかったことも確かめられるようになりました(J.F. Geddes, H.L. Whitwell “Inflicted head injury in infants”, 146 Forensic Science International 83 (2004)など)。しかも、A子ちゃんは、2歳4か月で体重は約10kgあります。もちろん首もしっかりと据わっています。SBS仮説で前提とされているような激しい揺さぶりができるはずもなければ、それによって赤ちゃんのような損傷を受けるはずもないのです。SBS仮説を前提としても、2歳4か月の幼児に対する「激しい揺さぶり」によって頭蓋内損傷が生じたとは考えないはずです。検察側医師は、一審において弁護側の指摘により、ジェナレリの実験を読み間違っていたことを認めました。しかし、あくまでびまん性軸索損傷論という自説は撤回しようとしませんでした。根拠が崩壊しているにもかかわらず自説に固執していることが明らかです。その固執の背景には、揺さぶりによって、びまん性軸索損傷が生じるというSBS仮説による思い込みがあったと考えざるを得ません。ところが一審判決は、「交通事故といっても、態様はさまざま」などという論理で、検察側医師の証言を根拠に、今西さんがA子ちゃんに、「頭部への強度の外力」を加えたと認定してしまったのです。あまりに非論理的な判断です。 […]
[…] その医師が前提にしたと考えられるのが、SBS仮説に対する誤解です。SBS仮説は、揺さぶりによって、頭部の表面には目立った痕跡がなくても、脳の深部に強い外力を及ぼすことが可能だと考えてきました。これまでもこのブログで説明してきたとおり、SBS仮説は、「急性硬膜下血腫、網膜出血、脳浮腫の三徴候が認められれば、強い揺さぶりがあったと推定できる」ことを前提にしています。そのうち「脳浮腫」とは、揺さぶりによって、脳神経が広範囲に切れてしまう「びまん性軸索損傷」だと考えてきました。そして、検察側医師は、「CT画像からはA子ちゃんにはびまん性軸索損傷が生じていると考えられる」、「揺さぶりによって、びまん性軸索損傷が生じ、脳幹の上部(中脳)に損傷が生じることはサルの実験によって確かめられている」と証言したのです。医師の述べる「サルの実験」とは、ジェナレリという脳神経外科医が1982年に発表したものです(Thomas A. Gennarelli etal “Diffuse Axonal Injury and Traumatic Coma in the Primate” Annals of Neurology Vol.12,Issue 6 December 1982 Pages 564-574)。実は検察側医師は、このジェナレリの実験を誤解していました。ジェナレリの実験をサルの頭部を「11秒から22秒激しく振り回した」ものだと思っていたのです。そして、11秒から22秒激しく揺さぶれば、「びまん性軸索損傷を生じ、脳幹上部にも損傷を生じる」ことを示していると思い込んだのです。ジェナレリの実験は全く違います。「機械によって、サルの頭部を11ミリ秒~22ミリ秒=1000分の11秒~22秒という目にもとまらない速さで動かし、かつ停止させることによって、高位落下や高速交通事故において脳が受ける衝撃を再現したもの」だったのです。検察側医師は、「ミリ秒」が1000分の1秒であることを知らない上、11~22秒の揺さぶり実験だと誤読していたのです。ジェナレリの実験のように高速度交通事故に匹敵する衝撃が加えられれば、びまん性軸索損傷や脳幹上部に損傷を生じても何ら不思議ではありません。もちろん、ジェナレリの実験は、人間の手の揺さぶりによって、交通事故並みの外力が生じることの論証にはなりません。それどころか、全く逆の結論が、多くの工学的な実験で確かめられてるのです。成人男子が激しい揺さぶりをしても、びまん性軸索損傷などの頭蓋内に大きな損傷を与えるほどの外力を生じさせないことが明らかにされてきたのです(Ann-Chritine Duhaime,M.D.etal,“The shaken baby syndrome A clinical, pathological, and biomechanical study” 66 J Neurosurg 409-415(1987), John Lloyd et al., “Biomechanical Evaluation of Head Kinematics During Infant Shaking versus Pediatric Activities of Daily Living” 2 Journal of Forensic Biomechanics 9 (2011)。ニュージャージ上級裁判所決定も参照)。そして、SBSとされてきたほとんどの事例で、びまん性軸索損傷が生じていなかったことも確かめられるようになりました(J.F. Geddes, H.L. Whitwell “Inflicted head injury in infants”, 146 Forensic Science International 83 (2004)など)。しかも、A子ちゃんは、2歳4か月で体重は約10kgあります。もちろん首もしっかりと据わっています。SBS仮説で前提とされているような激しい揺さぶりができるはずもなければ、それによって赤ちゃんのような損傷を受けるはずもないのです。SBS仮説を前提としても、2歳4か月の幼児に対する「激しい揺さぶり」によって頭蓋内損傷が生じたとは考えないはずです。検察側医師は、一審において弁護側の指摘により、ジェナレリの実験を読み間違っていたことを認めました。しかし、あくまでびまん性軸索損傷論という自説は撤回しようとしませんでした。根拠が崩壊しているにもかかわらず自説に固執していることが明らかです。その固執の背景には、揺さぶりによって、びまん性軸索損傷が生じるというSBS仮説による思い込みがあったと考えざるを得ません。ところが一審判決は、「交通事故といっても、態様はさまざま」などという論理で、検察側医師の証言を根拠に、今西さんがA子ちゃんに、「頭部への強度の外力」を加えたと認定してしまったのです。あまりに非論理的な判断です。 […]