「AHT共同声明」の再検討(酒井邦彦元高検検事長の論文について(5))

 このブログでもすでに何度か指摘してきたとおり、2020年2月発行の『研修』誌・860号17ページに掲載された酒井邦彦「子ども虐待防止を巡る司法の試練と挑戦(1)(全3回)」は、「最近のAHTに関する内外における進展」の存在を指摘し、「どういうわけかSBS検証プロジェクトでは紹介されていない、『乳幼児の虐待による頭部外傷に関する共同声明』を紹介します」(下線は引用者)と述べた上で、この声明は「吐瀉物の誤嚥による窒息がAHTと同様の所見を呈するという主張など、SBSの反論として挙げられる多くの他の原因について、信頼できる医学的な証拠はないなどとしています」 と記述します。

 SBS検証プロジェクトは、これまでもAHT共同声明の全文を翻訳するとともに、その内容について検討(1, 2, 3, 4) してきました。2019年2月のシンポジウムではAHT共同声明について掘り下げて議論しました。したがって酒井論文の認識はそもそも誤っているのですが、本投稿ではさらに、酒井論文が重視しているAHT共同声明がどのような意図で出された文書なのかを明らかにしようと思います。

 結論からいうと、AHT共同声明は、刑事裁判に対して影響を与えるために出された、きわめて政治的な色彩の強い文書です。

 「乳児と子どもの虐待による頭部外傷に関する共同声明」(「共同声明」の原語はコンセンサス・ステートメント(Consensus Statement))は2018年に公表されました。SBS/AHT推進論者たちが自分たちの見解を改めて明らかにし、SBS/AHT仮説に疑義を唱える議論を批判するという内容のものです。

 「AHT共同声明が出たのだから、AHT/SBSを巡る論争には決着がついた」という論調の主張も見られます。たとえば、日本小児科学会のウェブサイトにある「乳幼児揺さぶられ症候群について」(Q&A)には、「2018 年 9 月 2 日〜5 日に、チェコのプラハで開催された第 22 回国際子ども虐待防止学会(ISPCAN)世界大会でも、この共同合意声明を検証するワークショップ……が開催され、本共同合意声明の妥当性が国際的に認定されました」などと書かれています。

 すでに述べたとおり、AHT共同声明はSBS/AHT推進論者たちの主張を確認する内容のものなのですが、次のような問題点があります。

(1) AHT共同声明は新たな科学的知見を明らかにしたものではありません

 はじめに再確認しておくべきなのは、AHT共同声明が新たな科学的・医学的知見を明らかにしたものではないという点です。共同声明で展開されている議論はすでに公刊された論文を引き写したものです。これらの論文に対しては、様々な問題点(循環論法方法論的問題その他)が指摘されてきましたが、AHT共同声明はそれらの批判に答えるものでもありません(この点については、上記のとおり、このブログでも再三指摘してきました)。

(2) AHT共同声明は裁判所の判断に影響を与えるという明確な意図をもった文書です

 それでは、AHT共同声明が出された意図はどういうところにあったのでしょうか。

 これを考える手がかりとなるのが、AHT共同声明の執筆者のひとりであるサンディープ・ナーラン医師が2016年に公表した論文(Sandeep Narang, The Medico-Legal Value of Consensus Statements, 46 (5) Pediatr Radiol (2016) at 601–602)です。ナーラン医師は法曹資格を持つ医師で、刑事手続についても非常に詳しい人物ですが、一般論として共同声明を出し、裁判所の判断に影響を与えるという戦略を示唆しています。以下、上記論文の一部の抜粋(翻訳は笹倉)です。

 「EBMが重要視されている現在、エビデンスに基づく評価やエビデンスの質に関するヒエラルキーの中で、専門家の意見に基づく共同声明は、医学的エビデンスのレベルでいえばもっとも低い位置づけのものにあたる。しかし、法律の分野においては、共同声明や専門家の意見は(控訴審の裁判体や最高裁判事が合議体で下す判決のように)、もっとも高い価値があるものとして位置づけられている。医学と法学との価値判断が異なる例の一つである。医師と法律家は違う言葉を話し、異なった学問的フレームワークの中で働いており、異なる目標を持っている」

 「丁寧に遂行された場合には、特定のトピックに関する最善のEBM研究について裁判所に対して中立的な教育を与えることに結びつく。さらに重要なのは、当該論点に関する専門家証言の証拠能力判断を裁判所が行う際に、その医学コミュニティにおける『一般的承認』の存在についての一応の証拠ともなりうる。少なくとも、共同声明は主流派の医学的知見と外れる仮説を弾劾するための強い反対証拠の材料となるだろう」。〔下線は引用者〕

 AHT共同声明の2年前に公表されたこのナーラン論文を読むと、「共同声明」を戦略的に利用し、裁判所の判決に影響を与えるという明らかな意図を見て取ることができます。そのナーラン医師が参加して執筆されたAHT共同声明もこのような意図をもって出されたのであれば、それは学問的というよりは、裁判対策としての色彩が強いということがうかがわれるのです。

 AHT共同声明が出された背景には、近年、アメリカをはじめとする各国においてSBS/AHTの裁判で多数の無罪判決が出ていることや、SBU報告書(スウェーデン、2016年)などによる医学的な見地からの批判がSBS/AHT理論に向けられていることがありました。批判に対抗し、AHT/SBS理論には「一般的承認」があるということを主張するためのひとつの手段としてAHT共同声明が出されたと考えるべきでしょう。秋田弁護士の別記事のとおり、アメリカの刑事裁判において科学的証拠が提出を認められるためには、関連する分野において「一般的承認」を得られているかどうかということが必要だからです(いわゆる「ドーバート基準」「フライ基準」)。

(3) AHT共同声明が発出されるまでの手続には問題がありました

 AHT共同声明は、公表されるまでのプロセスにつき、「学会が専門家声明を出すに当たっては、すべての学会構成員にその作成に貢献する機会を提供するプロセスが採用されており、そのプロセスに基づいて共同声明が作られているということについて、裁判所は信頼してもよい」といいます。しかし、実際の公表までのプロセスは、下記のとおりであったとされています。

 たとえばアメリカ小児放射線学会の例です。同学会では2017年10月17日に会員に対してメールでAHT共同声明の草案が送付され、意見提出に10日間が与えられ、その後会員から出された意見への応答もなく学会全体として共同声明に参加したようです。このような簡単な手続のもとで、「コンセンサス」が学会において得られたとされてしまったのです(Keith Findley et al., Feigned Consensus: Usurping the Law in Shaken Baby Syndrome/ Abusive Head Trauma Prosecutions, 2019 Wisconsin Law Review 1211 (2019))。しかし、果たして、これで本当に「コンセンサス」を得られたといえるのでしょうか。

 そもそも「共同声明」という手法は1970年代から1980年代によくとられた方式で、様々な意見の研究者が集まって話し合い、お互いが合意できる最大公約数についてまとめたものだったようです(2019年の日弁連でのアンダース・エリクソン医師の講演による)。

 これに対してAHT共同声明は、AHT/SBS理論について一定の立場に立つ者のみが集まって作成したものであり、そもそも学会における「コンセンサス」を明らかにするためのものではないといえます。

 なお、AHT共同声明には欧米の一部の小児放射線学会、小児科学会や日本の小児科学会は参加していますが、たとえば日本の小児神経学会をはじめとする他の関連学会は参加していません。「参加している」学会を見るだけではなく、「参加していない」学会が多数あることにも留意する必要があります。

 つまり、AHT共同声明で「SBS/AHTをめぐる議論に決着がついた」といえるような状況ではありません。このことを、改めて確認しなければなりません。

One reply

  1. […] このブログで、酒井邦彦元高松高検検事長が当プロジェクトに言及した論文の問題点を5回に分けて詳しく指摘しました((1) (2) (3) (4) (5))。今度は、現役の検察官である田中嘉寿子大阪高検検事が、「警察學論集」という警察官向けの雑誌において、当プロジェクトを名指しで批判する論文(「虐待による頭部外傷(AHT)事件の基礎知識(上)」警察學論集73巻8号106頁・立花書房/2020年。以下、「田中論文」)を発表しました。田中検事は、同じ立花書房から「性犯罪・児童虐待捜査ハンドブック」(2014年)を出版していますので、検察庁内で、児童虐待事件の捜査を主導してきた立場と言えるでしょう。当プロジェクトの活動が、検察庁に強く意識されていることが窺えます(もっとも、田中論文は「本稿は、当職の私見であり、検察庁の公式見解ではないことをお断りしておく」としています)。しかし、酒井論文と同様、田中論文は、非常に残念な内容と言わざるを得ません。いくつか、その問題点を明らかにしましょう。 […]

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