十分な理解の上での批判を-かみ合った議論のために(酒井邦彦元高検検事長の論文について(1))

SBS/AHTをめぐる無罪判決が相次ぐ中、これまでの私たちの発信に対し、反発するような議論も見られるようになりました。海外でも同じような傾向にあり、そのこと自体は予想されたところです。ただ、その中には、非常に影響力をお持ちの方が、私たちの議論に十分なご理解のないままとしか思えない批判をされている例も見受けられ、非常に残念に感じることがあります。誌友会という法務総合研修所関連の機関が主に検察官向けの研修用雑誌として編集している、その名も「研修」という法学誌に、「元広島高等検察庁・高松高等検察庁検事長」の肩書で、酒井邦彦弁護士が、「子ども虐待防止を巡る司法の試練と挑戦(1)(全3回)」と題する論文を寄稿されています(「研修」令和2年2月号(No.860)17頁。以下、「酒井論文」といいます)。そこでは、SBSをめぐる議論や、私たちSBS検証プロジェクトについても触れていただいているのですが、その内容も、そのような残念な論稿の1つです。この論文は、「一般社団法人日本こども虐待防止学会『子どもの虐待とネグレクト』第21巻第3号より一部加筆・修正の上、掲載」という断り書きがあることや、堅い法学雑誌であるにもかかわらず「です・ます調」で書かれていることからすると、日本子ども虐待防止学会での酒井弁護士の講演原稿か、反訳を利用されたのではないかとも推測されます。いずれにしても、虐待問題に取り組んでおられる多くの医師の方々がこの論文と同趣旨の内容を読んだり、聞かれたりした可能性が高いと思われます。その意味でも、非常に影響力が大きいと思われますので、酒井論文の問題点について、いくつかの点を触れておきたいと思います。

酒井論文の最大の問題点は、「どういうわけかSBS検証プロジェクトでは紹介されていない、『乳幼児の虐待による頭部外傷に関する共同声明』を紹介します」との一文に端的に表れています。酒井弁護士は、ご存じなかったようですが、このブログで、繰り返しこの共同声明(以下、「AHT共同声明」といいます)について言及をしてきました。「なぜ議論がすれ違う?-”わからない”ことはわからない」「SBSをめぐるもう一つの出版-溝口医師のSBS解説」「2018年「AHTに関する共同声明」の翻訳を公開しました」「AHT共同声明の問題点(その1)-マグワイアの循環論法」「AHT共同声明の問題点(その2)-チャドウィックの確率の誤謬」「AHT共同声明の問題点(その3)-自白への依存」「AHT共同声明の問題点(4)-区別する基準が存在しない」などです。これらをお読みいただければ、むしろSBS検証プロジェクトは、日本において、AHT共同声明について、最も詳細に検討を加えて、発信しているグループであることがお判りいただけると思います。これに対し、酒井論文は、AHT共同声明の医学的ないし科学的根拠の正当性について言及することはなく、「『詳細な研究によれば、AHTと似た症状を呈する病気はない。しかし、法廷は、一般的に受け入れられている医学的知見と相容れない不確かな理論が飛び交う場所になっている』……とした上で、吐瀉物の誤嚥による窒息がAHTと同様の所見を呈するという主張など、SBSの反論として挙げられる多くの他の原因について、信頼できる医学的な証拠はないなどとしています」と、その結論だけを引用する形になっています。また、酒井論文は、アメリカのドーバート基準を持ち出し、山内事件逆転無罪判決の根拠となった弁護側主張まで、批判しています。そこには、AHT共同声明こそが正しく、これに批判的ないし懐疑的な議論は排斥されるべきだという発想があると思われます(なお、同じような論調は、後述する逆転無罪判決の控訴審における検察主張にも表れていました。ちなみにアメリカの裁判での実情は、酒井論文とは反対に、SBS仮説こそがドーバート基準を充たしていないという裁判例が複数でているのです。これらの点は別の機会に述べたいと思います)。

ちなみに、酒井論文がことさらに誤嚥窒息を取り上げたのは、酒井論文でも引用されている大阪地裁平成30年3月13日判例時報2395号100頁での弁護側主張を意識してのことでしょう(酒井論文はこの判決を「丁寧」と評価しています)。しかし、乳児に多くの誤嚥窒息例があること、多くの場合その痕跡は残らず見過ごされている可能性があることは、SBS理論を主導してきた医師も認めています。例えば、このブログで何度も触れてきた溝口史剛医師が監訳したキャロル・ジェニー医師(アメリカの虐待小児科医としてSBS仮説を主導してきた有名な医師です)編著「子どもの虐待とネグレクト- 診断・治療とそのエビデンス」(金剛出版2017)の「乳児突然死症候群(SIDS)か窒息か?」(533頁)には、「乳児は小さく、力もないため、虐待であれ事故であれ、強く抗うことができずに容易に窒息に至りやすい」「乳児の窒息死とSIDSは剖検所見では全く見分けはつかない事はしばしばである」「比較的短時間の気道閉塞を契機に呼吸停止をきたす乳児がいる」「窒息事例において事故が原因であるか虐待が原因であるかを、鑑別することが出来るわけではないことを明確に表しているということが出来よう」などの記載があります。このように書くと、乳児突然死症候群(SIDS)は他の原因が鑑別できない場合の除外診断なのだから、AHTの場合に持ち出すのは筋違いだ、という「反論」が出て来るでしょう。しかし、窒息の鑑別が困難である上、AHTだという鑑別そのものに疑問が呈されているのですから、反論にはなっていません。SIDSとされた中に鑑別できなかった窒息が含まれているのと同様に、AHTとされた症例の中に窒息事例が含まれうることは十分に説得的です。キャロル・ジェニー編著にある「虐待であれ事故であれ」あるいは「窒息事例において事故が原因であるか虐待が原因であるかを、鑑別することが出来るわけではない」との表現を素直に読めば、それが「吐瀉物の誤嚥による窒息がAHTと同様の所見を呈するという主張」が成り立つことを合理的に裏付けていることが明らかです。ちなみに、乳児が窒息して低酸素脳症に陥ると、3徴候の1つとされる急速な脳浮腫が生じることは、多くの医師の共通の認識です。つまり、低酸素脳症があると「揺さぶり」の重要な根拠が崩れてしまうのです。このため、SBS仮説に基づき虐待を主張する立場は、窒息による低酸素脳症を否定することに躍起にならざるをえないのです。

実は、酒井論文が「丁寧」と評価しつつ引用した上記大阪地裁判決は、2020年2月6日大阪高裁逆転無罪判決(西田眞基裁判長)の第1審判決でした。同逆転無罪判決は、様々な客観的証拠と、一審以来検察側・弁護側双方の医師証人の多くが誤嚥窒息や舌根沈下による窒息の可能性を認めていたことを踏まえ、「被害児の心肺停止や急速な脳浮腫の進行等を説明できる位置付けの事象として、事前に誤嚥等による窒息が介在していた可能性を示す証拠内容が多数認められ、いずれも容易に排斥できないのに、これらを十分に吟味しないまま窒息の介在の可能性を否定した原判決の判断は、論理則・経験則等に反し、不合理なものといわざるを得ない」と断じたのです(これ以外にも、控訴審判決は、多くの点で原判決の論理則・経験則の誤りを厳しく指摘しています)。ちなみに、控訴審においても検察側証人として証言に立った溝口史剛医師は、誤嚥窒息の可能性を必死に否定しようとしましたが、SIDSをめぐる先の「反論」は、溝口医師がその法廷で述べたものだったのです(正確には、「大前提として、この事例で乳児突然死症候群だったのか、窒息だったのかって議論するのは、完全にナンセンスなことだと思ってますけど」「乳児が突然に亡くなった際に、これだけ明確な頭部外傷の所見があれば、乳幼児突然死症候群の可能性はすぐに棄却されますから、議論がかみ合わないだけで終わると思いますけど」というものです)。

そもそも酒井弁護士は、SBSを疑われる事案で低酸素脳症の持つ意味、特に上記逆転無罪判決の具体的な証拠関係をどれほどご存じなのか、大いに疑問と言わざるを得ません。ちなみに、大阪高検は、逆転無罪判決に不服として、最高裁に上告をしました。その背景には酒井論文のような発想があると思われます。有罪に拘泥し、自らの誤りを認めようとしない検察の姿勢に強い憤りを覚えます。非常に残念なことです。あくまでSBS仮説に基づく虐待認定に拘泥する議論に共通するものを感じます。SBS仮説は一旦立ち止まって、ゼロベースで見直すべきときです。

さて、いくつか酒井論文の問題点を指摘しましたが、酒井論文には他にも多くの問題が見受けられますが、それらは別の機会に触れたいと思います。ただ、根本的な問題は、「どういうわけかSBS検証プロジェクトでは紹介されていない」というひと言に表れる理解不足でしょう。ただ、その点には私たちに反省もあります。私たちは、意見の詳細をこのブログで発信してきたつもりですが、ホームページのトップページからはブログの存在がすこし判りにくく、酒井弁護士も、このブログの存在に気づかれなかったのでしょう。今般、トップページを修正し、このブログの存在をわかりやすくしました。是非、過去の私たちの発信も十分に理解をした上で、SBS仮説を考えていただければと思います。

私たちは、あくまでかみ合った形で、建設的な議論をしたいと考えています。これからもSBS/AHTについては、議論が続くと思われます。相互に正確な理解のもとに、議論を進めていきたいものです。なお、酒井論文については、やはり同論文で名指しをされた金岡繁裕弁護士がコメントをしていますので、ご覧ください。

One reply

  1. […] このブログで、酒井邦彦元高松高検検事長が当プロジェクトに言及した論文の問題点を5回に分けて詳しく指摘しました((1) (2) (3) (4) (5))。今度は、現役の検察官である田中嘉寿子大阪高検検事が、「警察學論集」という警察官向けの雑誌において、当プロジェクトを名指しで批判する論文(「虐待による頭部外傷(AHT)事件の基礎知識(上)」警察學論集73巻8号106頁・立花書房/2020年。以下、「田中論文」)を発表しました。田中検事は、同じ立花書房から「性犯罪・児童虐待捜査ハンドブック」(2014年)を出版していますので、検察庁内で、児童虐待事件の捜査を主導してきた立場と言えるでしょう。当プロジェクトの活動が、検察庁に強く意識されていることが窺えます(もっとも、田中論文は「本稿は、当職の私見であり、検察庁の公式見解ではないことをお断りしておく」としています)。しかし、酒井論文と同様、田中論文は、非常に残念な内容と言わざるを得ません。いくつか、その問題点を明らかにしましょう。 […]

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