また、かみ合わない議論が…田中嘉寿子大阪高検検事の論文の何が問題か?

このブログで、酒井邦彦元高松高検検事長が当プロジェクトに言及した論文の問題点を5回に分けて詳しく指摘しました((1) (2) (3) (4) (5))。今度は、現役の検察官である田中嘉寿子大阪高検検事が、「警察學論集」という警察官向けの雑誌において、当プロジェクトを名指しで批判する論文(「虐待による頭部外傷(AHT)事件の基礎知識(上)」警察學論集73巻8号106頁・立花書房/2020年。以下、「田中論文」)を発表しました。田中検事は、同じ立花書房から「性犯罪・児童虐待捜査ハンドブック」(2014年)を出版していますので、検察庁内で、児童虐待事件の捜査を主導してきた立場と言えるでしょう。当プロジェクトの活動が、検察庁に強く意識されていることが窺えます(もっとも、田中論文は「本稿は、当職の私見であり、検察庁の公式見解ではないことをお断りしておく」としています)。しかし、酒井論文と同様、田中論文は、非常に残念な内容と言わざるを得ません。いくつか、その問題点を明らかにしましょう。

 まず、田中論文は、当プロジェクトが「サイト」を開設したとした上で、「同サイトで引用されている諸外国の資料の原典を確認すると、同サイトの主張には誤解を招くような表現が多々あることが分かる」と主張します。ところが、そこでの「サイト」の意味が曖昧な上、どうやら田中論文が言及しているのはホームページだけで、このブログは無視されているようなのです。というのも田中論文で「サイト」として注記されているのは、http://www.shakenbaby-review.comだけです。また、田中論文の内容を見ても、このブログでの記事を意識したと思われる部分はありません。通常、インターネット上で「サイト」といえば、websiteを指し、狭い意味でのホームページだけでなく、このようなブログも含んでいるはずです。このブログをお読みいただいている方はお判りだと思いますが、当プロジェクトは、このブログで国内外のSBS/AHTをめぐる多くの裁判例(日本 、海外 など)、AHT共同声明をはじめとする英語文献など、SBS/AHTをめぐる議論状況に詳細な検討を加え、私たちの見解を表明してきました。ホームページ上でも、このブログとリンクを貼り、トップページ中央に「私たちの主張は、ブログ『SBSを考える』で随時発信しています。こちらも併せてご覧ください」と明示してきました。ホームページやブログを開設された経験のある方はお判りいただけると思いますが、ホームページの更新はいろいろ手間がかかるのに対し、ブログでの発信ははるかに簡便にできますから、新しい出来事や議論のフォローは、どうしてもブログに頼りがちになります。このように書くと、「ホームページで公式に発表している以上、ブログに触れなかったとしても文句を言えないはずだ」とのお叱りを受けるかもしれません。ただ、当プロジェクトのホームページでは、ブログでの主要な議論をまとめ、新着情報として公開してきました。「2020年3月6日参考翻訳等に2018年『AHT共同声明』を加えました」「2020年3月21日 参考翻訳等に笹倉香奈『ウェイニー・スクワイア博士への批判について』を加えました」「2020年3月28日参考翻訳等に解説『SBS/AHTについてのかみ合った議論のために―AHT共同声明を中⼼に』を加えました」が、その典型です。ところが、田中論文には、これらの記事についての言及もないのです。特に、笹倉教授が詳細に紹介したスクワイア医師の功績や、その不当な弾圧の経緯を無視することは許されないでしょう。田中検事が、ホームページの更新を見ないまま田中論文を書いたのか、これらのブログ記事の存在を認識しながらあえて無視したのかは不明ですが、批判をされる以上、少なくともこのブログを前提に論じていただきたかったものです。

 さて、田中論文の中味の問題です。田中論文は、最初の立論として、AHTが「総合判断」であることを強調し、その根拠として「AHT共同声明」を筆頭にあげます。そうである以上、上記のように「AHT共同声明」の問題点を詳細に分析した当ブログの議論を参考にしていただきたかったところですが、その点はとりあえず措きましょう。AHTが「総合判断」だというのは本当なのでしょうか。この記事では、その点を確認しておきたいと思います。

 田中論文にいう「総合判断」論はどのようなものなのでしょうか。SBS/AHTの議論は、論者によってバリエーションはありますが、硬膜下血腫、脳浮腫、網膜出血の三徴候を中心に論じられてきたことは明らかです。そして、その三徴候説は、スウェーデンSBUの報告書などで徹底的に批判されることになりました。すると、SBS仮説を主導する医師らが強調するようになったのは、SBSの診断は、「総合判断だ」という議論なのです。すなわち、SBSの診断は、様々な状況や証拠を総合的に判断しているのであって、決して、三徴候のみで揺さぶりあるいは虐待と決めつけているわけではない、というのです。ちなみに田中論文は、総合判断以前の三徴候論については触れていません。仮に、SBS/AHT論者が、従前から三徴候ではなく、「総合判断」をしていたというのであれば、明らかなまやかしです。これまでこのブログで何度も引用してきた、「三主徴(硬膜下血腫・網膜出血・脳浮腫)が揃っていて、3m以上の高位落下事故や交通事故の証拠がなければ、自白がなくて(ママ)、SBS/AHT である可能性が極めて高い」(BEAMSの「SBS/AHT の医学的診断アルゴリズム」(『子ども虐待対応・医学診断ガイド』)などから明らかなとおり、三徴候がことさらに強調されてきたことは明白だからです。田中検事も、前記「性犯罪・児童虐待捜査ハンドブック」の中で「SBSとは、頭部を激しく揺さぶることにより、頭蓋骨と脳を繋いでいる架橋静脈がひきちぎられて出血し、急性硬膜下血腫を生じるものをいう。診断の際は、SBSの3徴候(①急性硬膜下血腫②脳浮腫③網膜出血)を頭部CT・MRIによって確認する。ただし、3徴候が揃っていない事例もある」と述べているだけでした。

 話を、「総合判断」論に戻しましょう。実は、この「総合判断」論には、いくつもの異なる議論が混在しています。あえて整理すると次の4点に集約できるでしょう。

①三徴候だけではなく、被害児の身体の痣の有無や発育状態、養育者の弁解なども十分に考慮している。

②単なる三徴候ではなく、揺さぶりに特徴的な三徴候の存在から判断している。

③三徴候の原因となりうる内因性の疾患などを慎重に除外している。

④診断に当たっては、院内委員会や児童相談所、警察、検察など多機関連携で慎重に判断している。

しかし、いずれも再反論が可能です。①についていえば、実際に三徴候以外に何ら問題のない乳児の事件が立件・起訴されています。山内事件(2019年10月25日大阪高裁逆転無罪判決)では、66歳の祖母であった山内さんが、外出する娘のために、わずか2時間ほど孫娘を預かった際に急変し、三徴候が見られたことから揺さぶりの犯人とされた事例です。②は、例えば、円蓋部の薄い多発性の急性硬膜下血腫、早期に発症する脳浮腫、多層性多発性の網膜出血などが、揺さぶりに特異的な三徴候だというものです。しかし、実際には、そのいずれもが揺さぶりではなく、低位落下・転倒や内因性の疾患、あるいは軽微頭部外傷後の二次的な症状として現れることが繰り返し報告されています。揺さぶりに特異的な三徴候など存在しないという批判が成り立つのです。③は除外診断と確定診断を混同すると言わざるを得ません。そもそも現代の医学をもっても、すべての内因を正確に除外できるわけではありません。また、いくつかの内因を除外したからといって、原因が揺さぶりに特定できる訳でもありません。現に、山内事件では、検察側の多くの医師が、静脈洞血栓症の発症を見落とし、除外できていませんでした。④については、仮に多機関が連携していたとしても、その多機関が誤った仮説に依拠していれば、多機関であることに何の意味もありません。逆に、多機関であることは、相互無責任体制にもなりかねないという問題があります。実際、日本の実情を見ていますと、警察や児童相談所は、医師の虐待意見に依存する一方、医師の方々は「虐待の認定は医師ではなく、警察や児童相談所、さらには裁判所の判断だ」と考えておられるのではないかと思えてきます。そして、「総合判断」といいながら、最終的には、医学的所見のみで「揺さぶり」や「虐待」を認定しているとしか思えないのです。

より本質的な議論として指摘しなければならないのは、SBS/AHT論の最大の問題点であり、これまでもこのブログで述べてきた「循環論法」です。しかし、AHT共同声明も、田中論文もSBS/AHT論が循環論法に陥っているとの批判に何も答えていないのです。とにかく、自分たちが正しい、異論は誤りだと言い続けているにすぎません。そもそも「共同声明」というのは、自らの主張が正しいことを正当化しようとする一種の政治的な意見表明です。これも繰り返し述べてきたことですが、科学の正しさは、多数決によって決まるものではありません。証拠によって裏付けられてこそ、その正当性が認められるのです(Evidence Based Medicine)。AHT共同声明や田中論文は、ガリレオ・ガリレイに異端のレッテルを貼った中世の宗教裁判を思い起こさせると言っても過言ではないのです。

田中検事には、AHT共同声明の問題点を無視するのではなく、十分に意識した上での考察をお願いしたいところです。

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