低位落下・転倒をめぐる勘違い-「まれ」と「起こらない」の混同

 保護者が低位の落下やつかまりだちからの転倒であると訴えている事案で、虐待通告をされた事件のカルテ記載を見たり、保護者からの話をお聞きしたりして、驚かされることがあります。医師が、低位落下や転倒ではこのような重篤な症状は「起こらない」と断定的に述べておられることがあるのです。以前にもこのブログで触れたことがあるのですが、重要なポイントなので再度述べておきたいと思います。

 確かに「乳幼児の転倒で頭骨内に重大な傷を負うこと」自体の確率が高いとは言えないでしょう。しかし、確率は低くても、硬膜下血腫や眼底出血は、低位落下や転倒でも一定の頻度で起こっていますし、そのうち一定の割合で重症化し、時として致死的となることは、繰り返し報告されているのです。 AHT共同声明でも、「極めてまれ」とは言いつつ「まれには起こる」ことを認めています(Review of the extensive literature informs us that mortality from short falls is extremely rare)。「まれ」と「起こらない」を混同することは、明らかな誤りです。このような勘違いは、低位落下や転倒の危険性を過小評価することにつながりかねず、かえって危険です。その認識を速やかに改めていただく必要があります。この点を検証してみましょう。

 繰り返しますが、「まれ」であることは「ありえない」とは大きく違います。数字で見てみましょう。日本では1年間で約90万人の赤ちゃんが生まれていると言われます。90万人の赤ちゃんのうち100人に1人が1回だけ、低位落下や転倒を経験するとしても、年間9000回の低位落下、転倒が生じます。そのうち100回に1度硬膜下血腫や眼底出血を起こすとしても、年間90回の硬膜下血腫、眼底出血が生じるのです。実際には、乳幼児の低位落下、転倒が100人に1人、1回だけということは考えられません。全国的に見れば、少なくとも年間数百件の硬膜下血腫、眼底出血が低位落下や転倒で生じていることになるはずです。「まれ」とは言え、必ず一定の数は起こってしまうと考えなければなりません。そして、そのうち一定の割合は重症化し、時として致死的となってしまうのです。日本のある脳神経外科の医師は、中村Ⅰ型を多く治療してこられた経験から、硬膜下血腫等が生じるうち、約1割は重症化するとされます。海外の文献でも、低位落下や転倒によって重症化し、致死的となった事例の報告はなされています。年間数百件のうちの1割だとすると、年間数十件は重症化してしまいます。仮に確率が低くても、決して無視できない数字です。考えてみれば、繊細でか弱い赤ちゃんの脳内で出血が起こっているのです。どのような影響を生じるか、完全な予測などできるはずもありません。にもかかわらず、低位落下や転倒では「重症化しない」などと断定できることの方が不自然・不合理と言うほかありません。

 では、どうして多くの医師に、前述のような誤った断定が生じてしまうのでしょうか。厚生労働省編「子ども虐待対応の手引き(平成25年8月改正版)」におけるSBSの記述(264~268頁)に典型的に示されているような、2010年以降の日本の医学界で有力とされていた認識そのものが問題だったのではないかと思われます。同手引きには、「出血傾向のある疾患や一部の代謝性疾患や明らかな交通事故を除き、90cm以下からの転落や転倒で硬膜下出血が起きることは殆どないと言われている。したがって、家庭内の転倒・転落を主訴にしたり、受傷機転不明で硬膜下血腫を負った乳幼児が受診した場合は、必ずSBSを第一に考えなければならない」「家庭内の低いところ(90cm以下の高さ)からの転落や転倒によっては、乳幼児に致死的な脳損傷は起きないとされている」「 前述のように家庭内の低いところ(90cm以下の高さ)からの転落や転倒によっては、乳幼児に致死的な脳損傷は起きないとされている 」(下線は引用者)などと書かれているのです。「殆どない」ですから、執筆者の方は、この内容でも「断定しているわけではない」と言われるのかもしれません。しかし、これだけ「起きないとされている」と繰り返されれば、少なくとも「低位落下や転倒では重症化しない」と断定しているように読めてしまうでしょう。この手引きでは低位落下や転倒の危険性についてはひと言も触れていないのですから、なおさら誤解をしやすいと言えます。どう見ても誤解を招く、危険な表現ぶりです。

実際に、誤った断定をする医師がこの手引きを読んでいるとは限りません。しかし、少なくとも厚労省の手引きは、この記載がなされた当時の医学界で有力説として多くの医師に信じられていた内容が反映されていることが明らかです。今後新たな誤解を防ぐためにも、厚労省が率先して早急な見直しと改訂を行うことが必要です。そして、すでに多くの医師に生じていると思われる誤解を、修正するための努力が求められていると言えるでしょう。

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