AHT共同声明の問題点(その1)-マグワイアの循環論法

アメリカの小児科医らが公表した「AHT共同声明」には様々な問題点があります。しかし、実は「共同声明」を読んだだけでは、その問題点がわかりません。問題点の多くは、説明されていない「前提」の中に隠されてしまっているからです。最大の問題点の1つである「循環論法」について見てみましょう。

「共同声明」には「マグワイアらのレビューによれば、特徴的な診断的所見が3つ以上存在する場合には、AHTであるという陽性予測率は85%であるという」との表現がでてきます。これを読んだだけでは何のことか判りませんが、「三徴候などが揃えば、虐待である可能性が確率的に高い(85%)、ということが統計学的な手法で確かめられた」と言いたいのです。そう聞くと、「なるほど、そうなんだ」と思ってしまいそうです。しかし、この説明には、大きなごまかしがあります。マグワイアの議論には、循環論法が含まれているからです。

マグワイアの議論とは、簡単に言うと、過去の虐待事例の統計学的な分析から、患者にどのような症状があれば、虐待の可能性が高いかを確かめたという研究です(Maguire et al. ”Estimating the Probability of Abusive Head Trauma:A Pooled Analysis” PEDIATRICS Volume 128, Number 3, 2011「虐待頭部外傷の可能性評価-あるプール解析」)。「統計学的な分析」と聞くと、それだけでもっともらしく聞こえてしまいます。

しかし、その研究にはいくつもの欠陥があります。中でも致命的なのが、循環論法です。いくら統計学的な手法を駆使しても、比較の根拠となる肝心の「過去の虐待事例」が正しいデータでなければ、何の意味もありません。過去の虐待事例が、真に虐待事例と言えるかどうかが問題です。この点、SBS仮説に対する主要な批判は、SBS論者によって主張される「虐待」と「非虐待」を区別する基準には医学的な根拠がなく、実際にはそのような基準はないというものです。マグワイアの議論は、この批判に答えようと、統計学的な手法を持ち出して、三徴候などが基準となりうるという論証を試みたと言えます。しかし、過去の認定が正しかったかが問題なのに、過去に正しく認定できたことを前提にしてしまっているのです。自らの議論(認定できる)の正当性の根拠に、自らの結論(認定できた)を持ち出しています。突き詰めれば、「認定はできる、なぜなら認定できたからだ」というのと同じです。これが、循環論法の正体です。

もっともマグワイア自身も、循環論法であることを自覚しており、循環をできるだけ避けようとしたといいます。マグワイアは、①虐待事例を裁判手続や多機関連携によるアセスメント(評価)で虐待だと認定されたもの、あるいは②自白や第三者の目撃証拠があるものに限定したとしています。これらの限定により、「循環のリスクを最小化した」というのです。

しかし、まず①について言えば、仮に裁判手続や多機関連携によって虐待だと認定されたとしても、その前提には、何らかの認定基準があったはずです(但し、SBS仮説において、その基準内容が明確にされたとは言えません)。その前提となる認定基準が誤っていた場合、その認定にも誤りが避けられません。結局、認定結果ではなく、もとになる認定基準に十分な根拠があったと言えるかどうかが問題なのですから、裁判手続や多機関連携を持ち出しても、循環論法であることに変わりはありません。

②にも問題があります。このうち、まず第三者の目撃によって、「揺さぶり」が三徴候を発生させたと証明された事例はありません。残るのは、自白です。自白については別途問題点を明らかにしますが、証拠としての問題がある上、自白された「揺さぶり」が真に三徴候の原因だったことを証明するものとは言えません。さらに、仮に自白どおりの「揺さぶり」によって三徴候が生じていた事例があるとしても、逆に、三徴候があった場合にその原因を「揺さぶり」であると認定することはできません。少なくとも、SBS仮説が、自白という危うい証拠に基礎を置いていることに留意されなければなりません。

他方、このような循環論法は極めて危険です。なぜなら循環論法は、誤った理論を誤ったまま正当化し、温存してしまうおそれがあるからです。例えば、その前提である「過去の虐待事例」の中に誤って虐待だと認定された事例が含まれていた場合、その事例も「虐待事例」の1つとして、別の似通った非虐待事例を「虐待の可能性が高い」と認定する根拠とされてしまうのです。新たに虐待と認定する根拠は、同様の事例を「過去に虐待だと認定した」ということです。では、どうして過去に「虐待だと認定した」と言えるのかと言えば、結局、根拠が不十分な認定基準(しかも、その内容は不明確です)によって「虐待だと認定したからだ」ということになってしまいます。このように循環論法は、自らの正当性を、自らの結論で基礎づけようとする自己実現型の理論なのです。誤った認定を強化し、固定化してしまうリスクを内在しているのです。マグワイアの議論では、「過去に虐待したと認定した事例」に症状が似ていると、新たに虐待であるとされる可能性が高くなりますが、症状だけでは虐待か非虐待かを区別できないという批判論の立場からすると、非常に危険な考え方だと言えるのです。

循環論法は、どこまで行っても、堂々めぐりの議論なのです。しかし、「AHT共同声明」は、循環論法だとの批判には答えることなく、マグワイアの議論を当然の前提であるかのように使ってしまっているのです。

7 replies on “AHT共同声明の問題点(その1)-マグワイアの循環論法”

  1. […] 「AHT共同声明」には、循環論法(循環論法の問題点はこちら)以外にも様々な問題点があります。例えば、「共同声明」には、「例えば、チャドウィックらは、低位落下の研究の中で低位落下による死亡は5歳以下の子どもにおいて年間100万人あたり0.48人であると言及した」という表現がでてきます。これはすでにこのブログでも詳しく説明した「確率論の誤謬」です。ところが、「共同声明」では、そのような誤謬も前提の中に隠されてしまい、一読しただけでは判らないのです。同じような議論は日本の論者にも見られます。 […]

  2. […]  以上に関連して、最近「SBS/AHTは存在する」という再反論がよくなされているようです。この再反論は、アメリカの小児科学会(American Academy of Pediatrics)などが(日本小児科学会も賛同しています)、2018年5月に発表した共同声明(Consensus statement on abusive head trauma in infants and young children–Pediatric Radiology誌所収)が、「AHTが存在するということについての医学的妥当性には争いがない」” There is no controversy concerning the medical validity of the existence of AHT.”などとしたことを受けてのものと思われます。この共同声明は循環論法、確率の誤謬、自白依存など多くの問題点を含んでいます。ここでは、まず「SBS/AHTは存在する」という再反論に端的に表れているとおり、その議論の立て方が根本的に誤っていることについて触れましょう。事故による頭部外傷がある以上、虐待による頭部外傷が存在しうることは当たり前です。先にも述べたとおり、私たちは、虐待の存在そのものを否定もしていませんし、その擁護もしていません。画像等の医学的所見では、虐待か、事故か、あるいは内因性のものかは、「鑑別(区別)できない」ということを問題にしているのです。仮に「揺さぶりによって三徴候が生じる」という命題が成立するとしても(かなり疑わしいのですが、そのことは別として)、「三徴候がそろえば揺さぶりだ」などと言えないのは、「逆は必ずしも真ならず」という論理学の初歩です。ところが、SBS仮説を主導する人たちの議論を丁寧に分析していくと、同様の初歩的な誤りが多く見られるのです。先の「SBS/AHTは存在する」という再反論はその典型です。 […]

  3. […] (1)循環論法、(2)確率の誤謬、(3)自白への依存とAHT共同声明の問題点を指摘してきました。4つめの問題として、虐待とそれ以外を区別する基準が存在しないという問題点を取り上げましょう。この点については、すでに「なぜ議論はすれ違うのか-わからないことは、わからない」の中でも取り上げています。しかし、重要な問題なので、繰り返し取り上げたいと思います。 […]

  4. […]  以上に関連して、最近「SBS/AHTは存在する」という再反論がよくなされているようです。この再反論は、アメリカの小児科学会(American Academy of Pediatrics)などが(日本小児科学会も賛同しています)、2018年5月に発表した共同声明(Consensus statement on abusive head trauma in infants and young children–Pediatric Radiology誌所収)において、「AHTが存在するということについての医学的妥当性には争いがない」” There is no controversy concerning the medical validity of the existence of AHT.”などと主張されたことを受けてのものと思われます。この共同声明は循環論法、確率の誤謬、自白依存など多くの問題点を含んでいます。ここでは、まず「SBS/AHTは存在する」という再反論に端的に表れているとおり、その議論の立て方が根本的に誤っていることについて触れましょう。事故による頭部外傷がある以上、虐待による頭部外傷が存在しうることは当たり前です。先にも述べたとおり、私たちは、虐待の存在そのものを否定もしていませんし、その擁護もしていません。画像等の医学的所見では、虐待か、事故か、あるいは内因性のものかは、「鑑別(区別)できない」ということを問題にしているのです。仮に「揺さぶりによって三徴候が生じる」という命題が成立するとしても(かなり疑わしいのですが、そのことは別として)、「三徴候がそろえば揺さぶりだ」などと言えないのは、「逆は必ずしも真ならず」という論理学の初歩です。ところが、SBS仮説を主導する人たちの議論を丁寧に分析していくと、同様の初歩的な誤りが多く見られるのです。先の「SBS/AHTは存在する」という再反論はその典型です。 […]

  5. […] その他にも、溝口解説には、前提の誤りや、根拠に乏しい決めつけ、論理の飛躍などが多数含まれていると言わざるを得ません。実は、溝口解説は、これまでこのブログで触れてきた「AHT共同声明」と軌を一にするものです。そして、ブログで指摘してきた循環論法、確率の誤謬、自白依存、基準の不存在などの問題点は、そのまま溝口解説にも当てはまるのです。確かに溝口解説でも、いくつか言及はあるのですが、根本的な問題点が、議論の前提や論者に対する個人攻撃的な非難に隠されてしまって、直ちに読み取ることが難しくなってしまっているのです。 […]

  6. […] (1)循環論法、(2)確率の誤謬、(3)自白への依存とAHT共同声明の問題点を指摘してきました。4つめの問題として、虐待とそれ以外を区別する基準が存在しないという問題点を取り上げましょう。この点については、すでに「なぜ議論はすれ違うのか-わからないことは、わからない」の中でも取り上げています。しかし、重要な問題なので、繰り返し取り上げたいと思います。 […]

  7. […]  また、鑑別診断について「医師が医学的知識を用いて患者の傷病を判断する際によく用いられる方法であり、症状を説明する可能性のある病状のリストを作成し、それらの病状を調査し、最も可能性の高い病状のみを残すまで除外することである。医学界は、経験に基づいた学習を通じて、適切な鑑別診断を行うために必要な臨床知識と判断力を開発する。- 診断が間違っていた場合は、患者の状態が改善されず、診断はやり直しとなる」とします。その上で、病因鑑別は「さらに一歩進んで、患者の病気や傷害の外部原因を決定するために、同じ消去プロセスを使用する。しかし、医師が適切な病因鑑別を行うことができるのは、状況が臨床的判断を発展させる経験に基づく学習を可能にする場合に限られる。決定された病因の正確性が自然にテストされない場合、医学界は否定的なフィードバックがないことを診断が確定したと勘違いしてしまう。これは、簡単に不正確な病因を永続させる自己循環的な確証フィードバック・ループを生成してしまう」としたのです。つまり、フィンドレー教授が述べたとおり、病因鑑別は鑑別診断を超えた外部的なものであるとした上で、適切なフィードバックがない限り、誤った病因鑑別が、固定的な思い込みを生んでしまうという危険性を指摘したのです。これは、このブログで何度も触れてきた循環論法の問題点そのものです。SBS/AHT仮説においては、「虐待に違いない」という確信的な診断が繰り返されてきましたが、日本小児科学会の見解からも明らかなとおり、残念ながら反証・検証がなされてきたとはいえず、適切なフィードバックはありません。SBS/AHT仮説は、まさにこの循環ループに陥っているのです。 […]

なぜ議論がすれ違う?-”わからない”ことはわからない – SBS(揺さぶられっ子症候群)を考える へ返信する コメントをキャンセル

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